真朱の姫神 第二部・飛鳥編
                                                                             
     
 三、井光の長老 

 山里といっても夏の朝の日差しは、もう、ぎらぎらと山々の青葉に照りつけていた。
 早朝、飛鳥を発った大海人天皇(おおあまのすめらみこと)は、わずかばかりの供を連れて那珂宮(なかのみや)に向かっていた。今日は今木の長・額田宿禰(ぬかたのすくね)が献納した駿駒に乗ってきている。少し遠道ではあったが急いでいるわけではなかったので、道の良い「下つ道」を通ってきた。
 飛鳥檜前(あすかひのくま)より市尾、葛(くず)の丹生谷を経て、奉膳(ぶんぜ)を通り今木(いまき)を経て、吉野川沿いを東へ向かう。この道は伊勢へ通じる道でもあった。
 しばらく進んでいくと吉野川をはさんで南側に背山が見え、対峙するようにこちら側の北岸には妹山がある。
 その妹山のふもとの杜(もり)に大海人は馬を乗り入れていった。この邑の氏神に参拝するためである。
 その大名持神社には、大名持(おおなもち)、須瀬理比売(すせりひめ)、小彦名(すくなひこな)がお祀りされており、壬申の乱の時、この大名持の神を奉祭する者たちの力に頼ったからである。それに大海人の供にも、ゆかりの者がいる。神(みわ)氏(三輪氏)、葛城氏、巨勢氏がこの系統の神を祭祀しているからであった。もともとこの神も、採鉱・精錬・製鉄の神なのである。 

 大海人の一行は参拝を済ますと、東へ向かう。この宮前が分岐点になっていて、南は熊野道となる。伊勢道を東にしばらく行くと左手に那珂宮が見えてくる。 
 この那珂宮では、額田女王(ぬかたのひめ)が大海人の到着を待っていた。
 額田女王は大海人との間に十市皇女をもうけたあと、先帝・天智天皇(中大兄)の後宮となり、先帝の死後、再び大海人のもとに身を寄せていたのだった。
 大海人は、大名持神社の東にこの「那珂宮(なかのみや)」を、そして秋津の吉野真人・井角乗の屋敷の近くに「吉野宮(よしののみや)」と、二ヵ所の離宮(とつみや)を新たに建設していた。正妃の菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)を伴った時は吉野宮へ、額田女王やその他の后は那珂宮へ連れて行くのが通例だった。
 離宮のあるこの地一帯は、加美(かみ)、那珂(なか)、資母(しも)、吉野(えしの)の四地区に分けられており、丹生川上神社のある長谷から、金岳・銀岳・銅岳の吉野三山をふくむ、穴生(あのお)あたりまでがヨシヌで、之努(しぬ)=小竹(しの)=小野(しの)などと表記され、本来の「シヌ」または 「シノ」に接頭語の「よ」を付けてよばれたのが吉野(輿之乃)の地名の起こりという。 つまり「ヨ・シヌ」、「ヨ・シノ」というのは 吉野川南岸の秋つ川から丹生川までの地域を言うのであった。

 那珂宮は吉野川の北岸、妹山のすぐ東の台地にあって、南向きに建てられ、吉野の清流とその向こうの背山が見渡せる絶好の場所にある。
 その建物の門前で額田女王は(もう、大海人天皇が到着なさる頃だ)とたたずんでいた。
 大海人との仲を天智に裂かれ、後宮になってはその天智に先立たれ、ついで翌年の壬申の乱で大友皇子を失い、その后で娘でもある十市皇女まで死なせてしまった額田女王は、傷心のまま近江宮より大和の地に戻っていたのである。
 近年は大海人の好意により飛鳥に呼ばれ、平穏な日々を送っていた。最愛の大海人と過ごせる時間は僅かではあったが寂しくはなかった。今は自然を愛(め)で歌を詠むことが楽しい。昔のように正妃の菟野皇女や外の女たちに対して、張りあったり嫉妬するようなこともなくなっていた。

 一方、大海人は飛鳥宮での即位以来、忙しい日々が続いていた。 各将に対する壬申の乱の報償に続き、律令の制度作りに着手したからである。その体制づくりのための、人材登用や新しい身分制度についても再編成しようとしていた。また重要な国家的事業としての史書の編纂をも考えていたのである。
 政務は、藤原不比等の他は特に大臣(おおおみ)をおかず、皇后・菟野がその殆どを補佐していた。皇子たちも政治に携わっていたが大海人の仕事は多忙を極めていた。
 時には休養と称して吉野宮に行くのだが、その殆どが重要な用件をかかえての行幸であった。井角乗や役小角たちに相談したり、吉野・丹生一族の長老の意向を聞く必要があったからである。 
 今日も一晩はこの那珂宮で過ごす予定だが、明日からは吉野宮に遷るはずであった。
(せめて今夜だけでもゆっくりと骨休みをしていただこう)額田女王はもてなしの料理の指図に付ききりだった。
 
 吉野での一日目の夜を、那珂宮で額田女王と過ごした大海人は昨日、この吉野宮(離宮)に遷り、三日目の朝を迎えていた。
吉野宮は大淀渡しの南岸を、秋つ川が吉野川に注ぐ川尻のあたりから、南に少し行った桃花(つき)の里あった。すぐ近くには日雄寺(ひのおじ)があり、さらに南へ行くと先年建設した占星台のある金峯山(金岳)があって、この道をさらに行けば遠つ川を経て熊野へ向かう。
 西へ行けば宇智を経て紀国への道。東は伊勢へ、南東へ行けば、長谷から天川を経て、やはり南紀へ向かう要衝であった。
 大海人の政治の表舞台は飛鳥宮だが、裏舞台は吉野宮であった。実際は裏舞台というより、この吉野宮は戦略本部としての機能を果たしていた。政策はここで生まれ、練られ、決定される。ここは大海人の政(まつりごと)の中枢で、あらゆるものが揃っており、武器・兵力・資力のどれでもすぐに動員できる体勢にあった。
 この吉野宮のすぐ隣には、丹生真人(にうのまひと)・井角乗の屋敷がある。鴨役君(かものえのきみ)・小角(おづぬ)もすぐ駆けつけてくれる。その小角は葛木山の麓に居を構えていたが、殆どそこには居らず、葛木山や金岳、銀岳、大峰の山々で修行の毎日を送っていたが、いつでも連絡がとれるようになっていた。

 吉野宮での大海人の執務は早暁からはじめられる。角乗や小角が夜の会合を嫌うからでもあった。今日も早朝から彼らと会うことになっていたので、大海人は夜明け前から起き出して待っていた。今日は特に角乗がその父、丹生井依(にうのいより)をともなって来訪することになっていた。もちろん、いつも通り小角も招いている。
 大海人は自室の南側の縁から東の空を眺めていた。
 しばらく見ていると空が朱に染まり始めた。すると下方の山から一条の光が射し込んできて、あたりはにわかに明るくなって来た。 
 目を南に移すと手前に金岳の美しい山容が、東からの日輪に映えて輝いているのが見えた。その向こうには銀岳が重なり、続いて銅岳がかすんで見える。
(もう来る頃だな)大海人は自室に戻った。
 戻るとすぐに来客の知らせがあり、続いて菟野皇女が井依翁を案内して大海人の部屋へ入って来た。会うのはいつもこの部屋だった。角乗や小角も一緒である。
「大王(おおきみ)、お久しぶりでござる」
 井依はいつも天皇を大王という。
「これは翁どの、ご足労をかけもうした」
 井依翁は吉野の主(あるじ)とも言うべき、丹生の首族・井光(いひか)の長老であった。井光の年寄は他に井頭、井口、井関、井戸といたが、本日は筆頭の井依だけである。井依は吉野三山の一つ、銅岳に庵をつくり隠棲しているが、なお絶大な力を持っている。
 大海人は翁の息災を喜び、翁もまた大海人の皇子たちの様子を聞き世辞を述べる。
 大海人は角乗や小角には、よく会っているので特に挨拶はしない。
 近頃、大海人はこうした席には必ず大后の菟野皇女を同席させるようにしていた。今も傍らで着座して話を聞いている。 
 それぞれの座所には、椀に入った飲物が置かれて湯気が立ち上っていた。
「これはの、三輪山で採れた蜂蜜入りの白湯じゃ。まぁ飲んでみてくれ」
 大海人は両手に持った椀に、息を吹きかけ一口飲んでから言った。
 蜂蜜の甘い香りが漂ってくる。三人は椀を手にしてひとくち口に含んだ。
「これが百済の伎人(てひと)が採っているという、噂の蜂蜜ですか」
 井角はふたくち目を飲んでから言った。
「そうじゃ、美味しいであろう・・・ところで井角(いかく)、手紙の案件はどうじゃ?」 
 大海人は井角乗(いのかくじょう)のことを、親しみを込めて井角(いかく)と呼んでいた。
「小角(しょうかく)はどう思う?」一方、鴨小角(かものおずぬ)のことは同じく小角(しょうかく)と呼んでいる。  
「どうじゃ?、話しは井角から聞いて居るであろう?」大海人は続けていった。
 手文の案件とは大海人が井角に送った書状のことである。それは「仏教」の問題であった。推古天皇の治世に聖徳太子が難波に四天王寺を建立して以来、仏教は急速に興隆してきていた。
 国家鎮護と学問の普及のためと考え、大海人も先帝の天智に引き続き、吉野に日雄寺(ひのおじ)や飛鳥に高市大寺を建て仏教を養護したのであるが、最近は疑問を持ちはじめていた。それは仏教の力を利用して旧蘇我氏系の勢力が又、頭をもたげる憂いがあったからである。ほかにも各地の豪族が斎祭(いつきまつ)る神々との軋轢も問題だった。大海人はこの神仏の問題に一番頭を悩ませていたのである。手紙はこの問題について意見を求めた内容だった。
「しからば・・・」と小角がはじめに答えた。
 それがしが思うには・・・と小角はいう。仏教には偉大な学問がある。上は天文から下は地理まで、全ての知識が網羅されているというのである。
 各地に寺を建て、全て国営とし民にも学問を普及させる。そしてそれらを総本山ともいうべき大官大寺に管理させれば良い。各地豪族の氏神はその下に組織する。そのようにして寺を利用し国を治めればよいのではないかという意見であった。

「私はかようにおもいます」次は井角が答える。
 小角どののご意見は尤もだが、仏教は西の外つ国の教えと聞いている。学問としては結構だがこの国には馴染まないと思う。それに蘇我氏系の旧勢力が利用するのではないかと心配だ。仏教には国としては一切援助せず、むしろ神道(かみのみち)の下に仏道(ほとけのみち)を組織する方がよいと思うというようなことを述べた。
 大海人は聞きながら考えていた。
(自分自身の考えは井角に近い)、大海人も仏教には馴染めなかった。
 仏門に学んだことも一時はありもしたが、仏像そのものにも寺の建築についても、あの独特のきらびやかさが好きでなかった。教えにも違和感がある。何となく神社(かみのやしろ)の清楚な端正さの方が好きであった。それに井角が言うように旧勢力のことも心配である。

「翁殿の考えは如何でござろう?」
 大海人は一番聞きたかった井依翁の言葉を待った。井依は話し始めた。
「その昔、我々の祖先は南から来た。南紀に上陸し、熊野の川を遡り、山を越え、沢づたいに鉱脈を求めてこの白銀(しろかね)の御獄(みたけ)に辿り着いたのじゃった。その時我々は既に鉄の技術を持っていた。古い技術であったが鉄はできた。それは川の植物に組成する鈴、いや、さなぎのようなもので振ると音がした。この『鉄のさなぎ』を低温で精錬して鉄を作る方法じゃった。しかし、このさなぎは清流にしか生成しないものじゃった」
 翁はここで一息入れると、又話しを続けた。 
「その頃、この地には既にイツモ族が居た。我々の先祖は彼等の娘をめとり、同化していった。さらにのちには外つ国の血も入れた。新しい製鉄の技術が必要じゃったからじゃ」 
 翁はさらに続ける。
「我々は多くの血の混じった民であったが、一貫して我が丹生一族は、精錬や製鉄とかかわってきた。そして我等一族の子孫たちは、この国の各地へ鉄の技術を伝えるために散っていったのじゃ」
 大海人は静かに聞いていたが、ここで小さな咳払いをした。

「大王(おおきみ)、年寄りが今まで長々と話しをしたのは、実はこの国の民族のことを言いたいためじゃ。この国の民は我が一族に限らず、実に様々な国の民族の血が流れておる。それを単一国家として、統率するには精神的な背骨が必要じゃ。それが宗教じゃと思う。一つは神道(かみのみち)、もう一つは仏道(ほとけのみち)じゃ」
 息子の角乗、鴨小角も身を乗り出して聞き入っている。
「中心はやはり大王が信奉する神道でなくてはならぬ。かと申して仏教を禁止するわけにもいかぬと思う」と井依翁は続けて言った。
「やはり神道一筋にはできぬか」
 大海人は不満そうに言う。
「神道には定かな教義もないが、仏教の方は教典もあって宗教としての形も整い、むしろ一般民衆には仏教を宣布した方がまとめやすいのではありますまいか」
と翁は言い、神道の下に仏教を位置付け、それを以て国家安立の柱となるような、神と仏を習合した信仰様式を作ればよいのだがとも言った。
 そしてまた、各地の豪族が斎祭る「国つ神」といわれる氏神の祭祀統制をするため、例えば伊勢神宮(いせのかみのみや)を「天つ神」として、氏神の上位に奉斎させる形式を考えねばならないとも言う。
「国家の基盤は・・・」と翁はさらに続けて言う。
「鉄と米だ」というのである。
 言い換えれば武器と食糧だが、この食糧を生産するためには鉄の農具が要る。つまり鉄と米を握った者が国を制すると言うのであった。
「しかしそれよりも大事なのは、・・・」と井依翁は語る。
 国家が存続していくためには共通の歴史認識や価値観、愛国心といったものが求められる。混血民族であればなおのこと、共有の国家意識が必要であるというのである。
 そのためにも、この国の正しい歴史書を作ることが急がれると翁は説いたのである。
 この意見には大海人も全く同感であった。先年すでに飛鳥宮で史書編纂のための下準備を官吏に命じてある。
そのあとは菟野も加わって政治の諸事一般について話が交わされた。
 朝餉の刻になり菟野が退座すると、
「実は東宮のことであるが・・・」と大海人が切り出した。
 東宮(皇太子)は草壁皇子と決めてあったが、病弱で人望もない。それにひき替えて大津皇子は文武両道に秀で、人望も厚く大津こそ皇太子にふさわしいと思うのは、衆目の一致するところである。大海人としては大津を皇太子にしたいと思うのだが、如何なものかというのである。
「それでは大后(おおきさき)さまが承知致しますまい」井依翁は賛成しなかった。大海人は井角や小角の顔を見ると、どうやら彼等も同じ意見らしい。
(皇太子は草壁にするほかはない)と大海人は考えざるを得なかった。
女官が朝餉の用意が整ったことを告げに来た。
「では大王、吾はこれにて失礼申す」
 翁は他所では殆ど食事は摂らないのである。特別な菜食をしているらしかった。
 大海人と井角、小角の三人は玄関まで翁を見送りに出る。菟野皇女も顔を出し、さらに表門まで見送りに出た。
朝餉を済ませると菟野を交えた四人は、政治の具体的な詰めにはいっていった。
 その頃、新羅は朝鮮半島を統一し始めていた。
 
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