真朱の姫神 第二部・飛鳥編
                                                                             
     
 二、大海人大王(おおあまのおおきみ)

 鳥居の前では先程から、神官が二人、人待ち顔でたたずんでいた。横の石塔には「丹生川上神社」と刻まれている。
 浅紫色の袴を付けた年上の神官は空を見上げた。長谷祝(ながたにのはふり)から額田稚姫(ぬかたのわかひめ)を、正午頃出迎えるように言い遣っていたからである。見ると、日輪はもう真上に来ていた。
(もう来られる)と思ったとき、蹄の音がして妙齢の女が駆け込んできた。一目で額田稚姫と知れる。もう一人の浅葱(あさぎ)(浅緑色)の袴の若い神官が轡(くつわ)を取ると、ひらりと裳を翻して女は馬を降りたった。
「ワカヒメさま。ようお越しなされました」
 年上の神官は懐かしそうに挨拶をする。
 伊与の乗馬は若い神官に向こうの厩へ引かれていった。
「スメラミコトさまは?」
 伊与が一番気に懸けていることを先に聞いた。
「昨日からお越しになりまして、本日早暁より神迎えの神事もお務めなされました」
「姉や兄も来られていますか?」
「はい。ご一緒にお務めなされました」
「すぐに会えますか」
「今は客殿に居られますが、先ずは神前にご拝礼なされませ」
 老神官は伊与を神殿へ案内していく。

 伊与の姉は銀峯山、丹生小竹宮(しぬのみや)のヒメミコ「豊与(とよ)」。兄は「角範(かくはん)」といい、井角乗(いのかくじょう)の嫡男である。つまり伊与は吉野真人(よしののまひと)・角乗の末娘だった。幼少の頃より父・角乗は伊与を、宇智郡布々木、丹生天野宮(あまののみや)のヒメミコにするつもりでいたのだが、大海人皇子のすすめで、額田宿禰の家に養女として入ったのである。適当な宗女がいなかったからだった。実父の角乗は大海人皇子とは旧知の間柄だった。同じ漢国の血をその先祖に引いていることを、お互いに感じていたからである。
 その昔、敏達朝の頃、吉野・井光族は首(おびと)に百済の王族を頂いたことがある。製鉄の新技術が必要だったからである。元々、ヤマトの民は混血民族だったので渡来人に対しての偏見は全く無いと言って良い。この王子は百済人だったが、先祖は漢王朝の出であったという。
 一方、大海人皇子は漢の高祖を崇拝していた。漢の高祖はその母が龍と交わって生まれたといわれ大海人も又、龍の申し子を自称していた。実際その出自ははっきりとはしていなかったが幼時は紀王(きのきみ)に育てられ、のちに皇極女帝に引き取られたらしい  
そのことからしても先帝・天智の実弟というのは疑わしかった。
 青年期の大海人皇子は、よく吉野に来ていた。井光の長老に道教を、比曽寺の唐僧に仏教を、役行者・小角に修験や武道を学んだ。
 角乗も大海人と共に学び共に山野を跋渉した。その頃に二人は教養と体力が養われたのである。
 特に小角は二人にあらゆる知識を伝授した。彼は葛木の鴨氏の一族、役公(えんのきみ)の出自で、いわゆる優婆塞(うばそこ)といわれる在野の修行僧であったが博識で、仏教は言うに及ばず、道教や神仙術、占星術、錬金術、呪術など、あらゆる内外の秘術に通じていた。
 小角は二人より十才ほど年上で、師匠でもあったが兄弟のような交わりをしていた。角乗などは尊敬のあまり、元、光乗といった名を小角の一字をもらい「角乗」と改名したくらいである。しかし、壬申の乱で大海人皇子が勝利を収め、天皇として即位してからは側近参謀として、小角と角乗は同格で大海人天皇に仕えるようになっていた。
 
 伊与は玉垣の内側を、老神官の後から進んだ。右側の手水舎で手を清め口をすすぐと、玉砂利を踏んで老神官に案内され、まっすぐ拝殿に向かって歩いていった。
 境内は美しく掃き清められていた。南向きの真新しい神殿は光を受けて照り輝いている。左の客殿からは人々のざわめきが聞こえてくる。
 右の玉垣の向こうに衛兵の姿が見える。飛鳥宮から大海人に従ってきた従者であろう。しかし供の人数は意外と少ないようだった。

 前方に三人の姿が現れた。威厳のある武人を先頭に、その后らしい高貴な婦人と神官である。正面の石段をこちらへ近づいてくる。
「あっ、大海人皇子(おおあまのみこ)さま」と小さく声をだしてしまってから、(スメラミコトさま)だったと気づいた。
 大海人は紗の冠に錦の御衣、深紫の袴に黒作太刀(くろつくりのたち)を佩いている。貴婦人はといえば、朱華(はねず)の衣(きぬ)に深紫の裳といった装いである。 
 ミコトの妃には宗像君の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)や菟野の姉、大田皇女(おおたのひめみこ)いたが、目前のこの婦人は正妃の菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)であると伊与は直感した。その後ろに続いているのは丹生川上祝(にうかわかみのはふり)であることが分かる。白麻の衣服に同じ白麻の袴には左三ツ巴の神紋が入れられていた。
 こちら側の老神官は素早く横手に引き下がり、跪拝して道を譲る。伊与もそれに見習った。跪拝した二人の前を大海人は通る。しかし、后は立ち止まると、
「お前が額田の稚姫か」と伊与に向かって言った。
「はい、お后さま、今木の娘でございます」
「して、今日は何用で参ったのじゃ」
「姉に逢いたくて参りました」
 前に立ち止まっていた大海人が、こちらを振り向いて言った。
「后よ。その娘は若桜の妹じゃよ」
 そういうと大海人は先に歩む。小竹宮は若桜宮ともいうので、つまり小竹宮のヒメミコ豊与の妹だといったのである。
 后は急ぎ足であとに続いていった。 

 伊与は拝殿まで進むと、正面の神殿に向かって拝礼し、柏手を打つ。
「丹生の大神さま、御世(みよ)の彌栄(いやさか)を成させてください」
 心からの祈りを、スメラミコトとこの御国のために捧げた。
 
 その日は夜明け前より、神事の用意が進められ、夜明けと同時に、神迎えの神事が執り行われていた。丹生川上の社へ新たに、龍神であり、水の神でもある「オカミ神」を奉斎する儀式である。
 この神事は天武朝にとって重要な意味を持っていた。それはこの地の産業の中心を、今までの漁猟や採鉱の生活から稲作中心の農業へ転向させる意図があったからである。それで稲作には無くてはならない水の神を奉祀させることにしたのだった。
 稲作は数百年も前から行われていたが、今までなかなか広まらなかった。大変な重労働であったからである。農具も不完全なものであったし、水利もままならず、一部の条件に恵まれた地域のみにとどまっていた。
 それは労働においても、以前よりの採取や漁猟、採鉱の生活の方が、まだしも楽であったからである。時代を経て鉄器が普及し、農具も改善され、大規模な灌漑工事ができるようになって、始めて稲作が一般化し始めたのである。
 朝廷は既に、平坦部から田地を開発し、稲作を促していた。そして山の民のイツモ族、採鉱の民であった葛木の鴨族、山城の鴨族、海の民であり採掘・精錬の民でもあった尾張族などの内、多くの人々を稲作に転業させている。
 しかし一方で蝦夷(えみし)や熊襲(くまそ)、隼人(はやと)などの一部は、頑(かたくな)にヤマトの支配下になることを拒み、稲作への転業を拒否して、東北や南西の僻地へ逃れていった部族もいた。

 さて、水の神・龍神の奉祀は大海人にとって他にも意味があった。
 龍の申し子を自認している大海人は、龍を祀ることは自分を崇めることにつながることを知っていた。それに「天文遁甲を能(よ)くし」陰陽五行説に明るく、天地・神霊の理(ことわり)を知悉していたので水の神を祀らせたのである。それにはこういう意味があった。 
 乙酉年に生まれた大海人は木徳の人である。誕生日は養父・紀王から聞いていた。
 大海人の命宿は井泉水、四神は青龍、色は青、季節は春、方位は東にそれぞれ配当されている。そして、縁の動物は犬で、天の数は三、地の数は八となっている。
 古代中国の哲学では、この世は万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水で成り立っていると説かれ、あらゆる自然現象がこれで説明される。水と木の場合「相生(そうしょう)」の関係となり、水は木を生む、又は水は木を助けるという意味に捉えられる。水生木(すいしょうもく)・木生火・火生土・土生金・金生水・水小木と循環する。
 逆の関係を「相剋(そうこく)」といい、水剋火(すいこくか)・火剋金・金剋木・木剋土・土剋水・水剋火と同様に循環する。
 この陰陽五行説でいう水の神を祀る意味はこうである。
 丹生大明神は金精明神(こんしょうみょうじん)とも言い、金に表象される。その金が水を生む。つまり水の神を生むのだ。水の神は龍でもあり、水は木を生み育む。その木は大海人自身でもある。
 そういうわけで木徳の人・大海人は水とは切っても切れない関係なのである。
 ともあれ、本日早暁に執り行われた、「神迎えの神事」は大海人を主賓に、丹生川上祝、小竹宮(しぬのみや)のヒメミコ豊与によって粛々と進められ、丹生大明神と共に、罔象女(ミズハノメ)が並祀されることになった。(ミズハノメはクラオカミやタカオカミと同じ水の神で龍神でもある)
 神事は昼前には全て終了し、神事に参列した人々は客殿に参集していた。

 直会(なおらい)の宴(うたげ)が今、始まろうとしていた。
 老神官に伴われて伊与が客殿に入ってくると、皆が一斉に振り向いた。それだけ際だった美しさだったからである。その中に兄がいた。姉もいる。
 父もすでに着席していて隣の小角と談笑していたが、ちらりとこちらを見る。 
 しばらくして「スメラミコトのお出まし」と告げられると、それまでざわめいていた会場は水を打ったように静かになる。
 后を伴って大海人天皇が現れ上段正面に着座した。
 お言葉があり、直会(なおらい)の宴(うたげ)になるとそれまでの緊張も解けて下座の者たちも宴を楽しめる雰囲気となる。
 たいてい吉野での大海人の宴は形式張らず、まるで身内の宴会のように自由に意見を述べられ、飛鳥宮とその雰囲気を異にしていた。
 宴もたけなわとなった頃、伊与に大海人からお声がかかった。
 正面に進み平伏する。
「ワカヒメよ、久しかったの」
 はい、と伊与はうつむいたままで顔も上げられない。
・・・スメラミコトさま、伊与も又お会いできて嬉しいです・・・声も出ない。
「もう、何年になるかの。随分と美しくなった。そなたが幼い頃、抱いてやったこともあったよの」
 会えただけでも嬉しいのに、伊与は胸が熱くなる。そっと顔を上げて大海人の目を見る。たちまち涙があふれてきて、目がかすみ大海人の顔が見えなくなった。
 あとは又、うつむいているだけだった。
 続けて大海人は言ってくれた。
「さぁ、もうあとは遠慮はいらぬぞ」
 大海人は壇上から下りてくると、伊与を促し父の角乗の前へ連れていった。
 大海人は角乗と小角の間に割ってはいると、どっかと着座してしまう。
 伊与は先ず、大海人に酌をすると、父に挨拶をし小角にも挨拶を交わした。
 三人の男たちは兄弟のように談笑している。それを見ながら伊与は子供の頃を思い出していた。

 丹生川で遊んでいた時だった。
 川中の岩の上で伊与は姉と兄の三人で遊んでいるとヘビが急にでてきた。姉と兄の二人は伊与をおいたままで川に飛び込み泳いで逃げてしまった。小さかった伊与は泳げず、岩の上に一人取り残されて助けを求めて泣き叫んだ。それを近くにいた大海人皇子(おおあまのみこ)、今のスメラミコトが助けたのである。すぐに川に飛び込んで伊与を救いに来ると岸まで連れていき、泣きじゃくる伊与を抱きしめて慰めたのであった。
 それ以来、伊与は「みこさま」「みこさま」と言って大海人皇子を慕ったのである。
 成長してからも、そのときに優しく抱きしめてもらった感触が忘れられず、恋心さえ抱くようになっていた。伊与は同年代の異性には魅力を感じないのに、親子ほども年の違う大海人に今も恋しているのであった。 

 大海人にお酒をつぎながら、伊与は先程から鋭い視線を感じていた。それが誰の視線かは見なくても分かる。菟野皇女さま、お后さまであることが伊与には分かった。
 伊与は大海人に許しを得て、姉の豊与(とよ)のそばへ行く。
「姉さま、お久しゅう」
 伊与は丁寧に挨拶をした。
 姉は丹生小竹宮(しぬのみや)のヒメミコである。この神社は銀峯山にあり、若桜宮とも言われ、丹生族の元宮として崇敬されている精錬の神であった。その神に仕える豊与は一族の象徴でもある。父の角乗は古来よりの習わしとして、小竹と天野のヒメミコは姉妹でなければならないと、小竹宮は姉の豊与に、丹生天野宮(あまののみや)は妹の伊与にと考えていたのであったが、推古天皇ゆかりの今木の額田部の宗女となってしまった。
「兄さま、おなつかしゅう」
 次は兄の角範の前へ進むと同じように挨拶をした。
 角範は姉の豊与より三つ下である。父・角乗の嫡男として、井光一族を束ねる実力を備えてきており、「井の若」と呼ばれ慕われていた。
 直会の宴は、盛り上がっていた。
 今、ここに会している者たちは、全て大海人の側近の有力者ばかりであった。当麻真人国見、息長真人坂田、鴨君蝦夷らの面々である。
 中には壬申の乱以来の再会者もいて、武辺の話しに花を咲かせている者もいる。壬申の乱では井光(いひか)をはじめとする丹生族は、あげて大海人の味方をした。大和の豪族はほとんど味方になったと言っても良い。南から紀氏、井氏、神(みわ)氏、大伴氏、巨勢氏、葛木氏、尾張氏、それに息長氏などが天武朝の誕生に期待したのだった。
 特に大海人側の戦闘部隊長、角乗の弟・男依(おより)は、一族を中心とする大部隊を率いて大活躍をし、大海人に大勝利をもたらす原動力となったのである。男依は以前より、一族郎党を引き連れ吉野を出、東国に移住して、葛城・高尾張邑出身の者達をも糾合して一大勢力を築いていたのだった。東国のこの地を尾張というのは、高尾張の地名に因んでいるのである。

 近江朝の大友皇子を倒すと、大海人は名実ともに大王となり都を飛鳥に定めて、飛鳥・浄御原宮(きよみはらのみや)で即位した。
 群臣の一人がこんな歌を詠んだ。

    大君(おおきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)となしつ

 大和盆地一帯は、太古は大きな湖であったと言われ、この時代に於いても湿地帯が多く、大海人は大規模な灌漑工事をして都を築いたのであった。
 いまこの直会に集う者は壬申の乱以来の功労者ばかりであった。
 しかしこの宴席には壬申の乱で活躍をした、高市皇子をはじめ長子の草壁や大津など六人の皇子たちは一人も呼ばれていない。飛鳥宮の文武官もわずかな側近を連れてきただけであった。大海人の后たちの内、同席させたのは正妃の菟野皇女だけである。
 宴は今たけなわであった。
 こよなく愛する吉野の地で旧来の友とまみえるこのひとときは、大海人にとってかけがえのない喜びであった。
 明くる日、大海人天皇は広瀬大忌神と竜田風神に幣帛を奉った。
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